ゆとり教育っていうのは、「小数点を3で習ったんやろ?」なんてことを例にバカにされがちです。
でも、社会的な問題を自分で考えて行動する素晴らし授業があったんです。
まぁそれも、結局のところサラリーマンとして働くなら生かされないですけどね。
ゆとり教育っていうのは、もっと生き生きした若者で溢れて欲しいと願って、昔の偉い人が考えたんやと思う。
満員の電車に揺られて通勤して、働きまくって、帰って寝る。この無限ループの中でモーレツに働くサラリーマン世代のおっちゃんが、これからの世代には、精神的に豊かに生きて欲しいと思ったんやろう。
そして、ゆとり教育が実現したんやとおもう。
ゆとり教育の思いで
ゆとり教育っていうと、円周率を3でならうんやろ?とか言われますけど、そんなん小数点の計算なんかやればできるでょ!って話です。直径と円周の関係がわかってりゃいいんです。
それより、ゆとり教育の特別カリキュラムですごく楽しい授業があった。
それは、わくわくタイムという、めっちゃ自由な授業。環境問題とかいろいろ、社会的なことをテーマに自分は何をしたらいいか考えて実行する時間。
当時は地球温暖化がもてはやされてて、小学生の僕は、大人になる頃には、日本に砂漠が広がってるんだろうかと心配していた。
そこで僕らのチームは、地きゅう環境をよくするために、公園で捨てられているゴミを拾うことにした。後に、空き缶はお金にかわると知り、そこお金でチューリップの球根を買って学校に植えると、地きゅうおんだん化を救えると思ってた。
公園で拾ったゴミを分別して、空き缶を集めた。先生は、空き缶を回収してくれる業者を探してくれた。
だけど、集めた量が少なすぎて、これを買い取っていたら、ガソリン代だけで赤字やから今度からはもっと沢山集めてくれと言われる。
そこで、先生にお願いして、全クラスで、家で出たあき缶を学校に持ってきてもらうようにクラスルームで告知してもらった。
そして、ある程度の量のあき缶が集まり、チューリップの球根を買うことが出来たのだ。
集めた空き缶の量は、業者さんにとって大したことはなかっただろう。儲からない仕事だっただろう。
先生は業者さんを探してくれて、僕たちはわずかながらのお金を得ることができた。そしてチューリップの球根を植える事ができた。
大人たちがめちゃくちゃバックアップして、小学生がのびのびと好きなことをやらせてくれる素晴らしい授業なのだ。実際に、地きゅう温だん化を止めることは出来たのかわからないけど、達成感と、ワクワクしてくる高揚感を感じれた授業だった。
社畜という現実
そんなゆとり教育を受けたとしても、大学を卒業しサラリーマンとして会社で働くようになると、ゆとりもクソもない。
結局は会社のシステムの中で淡々と働くことになる。
大卒の初任給って20万くらいだけど、ほんとよくできてると思う。一人暮らしして、多少遊べる程度のお金が残る。全く遊べないと、不満爆発ボンバーやからね。
正直、結婚して子供がいた場合、経済的に余裕のある状態ではないサラリーマンが大半じゃないですかね。
働かないと、来月の飯が食えないので、仕方なく会社にいってるようじゃ、そんなのゆとりある生活とは言えません。真性の労働者階級です。
そんな状況で、かんきょう問だいとか社会的に意味あることなんてやってる余裕ありません。
目の前の生活で精一杯なんやからね。
わくわくタイムとは何やってんやろうか。って事になります。
そんなあくせく働きたくないし。家族に安全で新鮮で美味しいもの食べさせてあげたいし。
とゆとりの僕は思う。
昨日より今日、今日より明日はいい暮らしができると夢を持ってモーレツに働いてた時代があるのかもしれないけど、今となっては、はそんなの社会が労働者を洗脳してるとしか思えない。
それに、昔と違って大抵のものは揃ってるからね。物質的にはある程度豊かです。
めちゃくちゃ豊かじゃないけど。
これは、会社のおっちゃんの話やけど、就職してカローラを買えばやっと、まともな人間になれたと安心した
なんてことをゆってた。
正直、せめてカローラぐらい買わないと格好がつかないと思わせるような雰囲気やったんでしょうね。
社会が目の前のにニンジンをぶら下げで、モーレツに働かせてた。
やけど今となっては、ニンジンが物珍しくなくなってきたから、僕みたいなゆとりは、そこで同じ様なモチベーションは持てない。
やけど、ネットのおかげで場所とか時間とかに制約なく、自由に働くことができます。
僕は、浪費はせずにそのお金を投資に回して
最終的には、不労所得で食べていけるゆとりになりたいです。
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